18世紀の終わりごろ。伊勢神宮(内宮)の近くの宇治浦田町というところに孫福斎(まごふくいつき)という青年が住んでおりました。町医者を営んでおりました。。明治維新をさかのぼること70年ほど前、11代将軍徳川家斉の治世、 寛政のころのお話です。
彼は27歳で独身です。小太りで背が小さくて、年よりも老けて見られるのをとても気にしている小心者の青年でした。近所の同年代の人は殆どが所帯をもっておりました。当時 元服式(成人式)が15歳ですから男性でも20歳くらいで結婚して所帯をもつのが普通でした。そんな時代です。
彼の家から歩いて30分ぐらいのところに古市という色街があります。それは参宮街道ぞいにあり芝居小屋や妓楼が軒を連ねている一大色町です。
寛政の改革で幕府は質素倹約を旨とし、朱子学以外の学問を禁じ、風俗や出版を統制しましたが伊勢古市には全く無縁で遊郭も芝居小屋もむしろ盛んになっていきました。
寛政年間はお伊勢まいりの大ブームで 古市には当時 妓楼76件 茶くみ女1000人一日の入り込み客は5000人を数えたといいます。
江戸の吉原、京都の島原とならび称され 日本最大級の遊里となっておりました。そんな中、孫福斎はよく古市に通い、油屋をひいきにしておりました。
油屋は備前屋、杉本屋とならぶ古市で三大遊郭のひとつでたくさんの茶くみ女をかかえておりました。そんな茶くみ女のひとりにお紺という遊女がいます。
年は16. 小柄で色白で、おとなしくて、あどけなさを色濃く残す・・・
そんな少女でした。彼 孫福斎はそんなお紺に夢中になります。
お紺と話しているときは実に楽しく、いやなことは何もかも忘れさせてくれる
至福のひとときでした。お紺は聞き上手で 斎のグチでもいやな顔をすることなくうなずいて同情のまなざしをむけて聞いてくれます。
そんなお紺が純真な斎にとって愛しく、遊女ということを忘れて恋心を抱くようになります。
寛政8年(1796年)5月4日の晩のことです。
斎はお紺に無償に会いたくなり 古市の油屋に出かけます。江戸時代 刀を差して持ち歩く特権は武士には許されておりましたが、医者も武士の末席扱いで苗字帯刀が許されておりました。 斎は「ごめん」と大きな声をだし油屋ののれんをくぐると 女中、下男、下女たちがいっせいに「先生いらっしゃい」と出迎えてくれました。「気持ちがいいのう。大名気分やのう」
心の中で何度も何度もつぶやきました。油屋へ上がるたびに大将気分になれるのです。それに斎はお紺に会いたくてたまらない。斎は腰の小刀を下女にあずけると、丁重に座敷に通されて行きました。
なじみの客に対しては真っ先に座敷に通して応対するのが常です。 斎は酒を注文しました。当然 斎はお紺を指名しました。彼は酒は好きですがあまり強い方ではありません。お紺が酒とつまみを運んできました。
「お紺、会いたかったぞ。お前のことが愛しゅうてたまらんのじゃ。」と斎はついつい大きな声を出します。
しばらくお紺は斎の酒の相手をしておりました。お紺は斎の話にただうなずいているだけなのですが 斎にとってそんなお紺がかわいくて仕方がありません。
そこに大きな声で話す3人連れが斎のいる座敷の横の廊下をドタドタと女中に連れられて通って行きます。となりのふすまが開く音。斎のとなりの座敷に入っていきました。3人の話声が聞こえてきます。
「どうやら 話ことばからすると地元の人ではなさそうやな」
斎はそう思いました。 斎はお紺と2人で静かに飲みたかったのです。
となりの騒がしい声が斎の耳には不快な雑音として響いてきます。
斎は神経質な面があり まくらがかわっただけでも寝つきが悪くなることがしばしばあります。
斎はとなりのことが気になって だんだんと腹がたってきました。
お紺との会話もとぎれとぎれになり、となりが気になってしかたがありません。
お紺はそんな斎のイライラを感じとって 場を和ませようと必死で笑顔を作ろうとするのですが何分まだ16歳の少女。笑顔を作ろうと努力すれば するほどぎこちなくなり 場の空気がますます悪くなってきます。
となりの3人連れは、四国は阿波藩から来た藍玉(あいだま)商人で 岩次郎(33才),孫三郎(35才),伊太郎(25才)です。
藍玉とは植物の藍の葉を乾燥発酵させ、つき固めて固形化したもので染料の一種です。着物を染めるのに使います。阿波の藍玉は良質で評判が高く阿波藩の特産物です。その藍玉の行商人が彼ら 岩次郎、孫三郎、伊太郎 なのです。
彼らは芝居見物の帰りに油屋に上がったのでした。
お紺にとって斎はいつも指名をしてくれる大切なお客さんです。しかし今日のお紺は少し違いました。
斎の話に相槌をうち、ときどき ケタケタと甲高い声を出して笑う彼女の姿は
そこにはありません。斎のイライラ感が伝わってきて はやくこの場をぬけだしたい そう思うようになってきました。
ちょうどそのときです ふすまが開いたのは・・・
茶くみ女のおしかがふすまを開け、おこんを手招きで呼んでいます。
店が混んできて 人手が足らない ということをおこんに伝えに来たのです。
お紺は手招きをするおしかの方へ歩みよると おしかはおこんに小声で言います。
「おこんちゃん、手が足らないから こちらにもちょっと顔を出して」
どうやら 菊の間の客がおこんを指名したとのこと。
お紺は「わかりました」とおしかに言うと 苦虫をかみつぶしたような顔で
酒を飲んでいる斎のところへ戻ってきます。 「先生、すぐ戻ってくるからちょっと待ってて」そう言うと斎をひとり残して部屋を出て行きました。
斎にしてみれば まさにふんだりけったりで不愉快この上ありません。
となりの小うるさい3人連れにも腹立たしい思いをしているのに お紺にも見放された・・・ 斎はそう思いました。おもしろくありません。
斎はお紺を待ちます。キセルで煙草をふかし、酒をラッパ飲みして・・・
酔いがまわってきました。斎は酒は強い方ではありません。
お紺は来ません。なかなか戻ってきません。待てども待てども戻ってきません。イライラがつのるばかりです。怒りが津波のようにこみ上げて来ました。
どうしようもありません。
おとなしい斎はとうとう切れました。
「おのれ おこんまでもが俺をばかにして くそ!」
と叫ぶと同時に おちょこを壁に投げつけました。バンというにぶい音がしておちょこが砕け散りました。「おかみを呼べ!」 斎は大声を出します。
騒ぎを聞きつけ おかみ、下男、下女が急いで斎の部屋にやってきました。
丁寧にふすまを明けるや言います。
「先生、どうかなされましたか」
「どうもこうもあらへん。おこんはどこへ消えたんじゃ。すぐ戻ってくる 言うて戻ってこんやないか。客をばかにすんのもええかげんいせんかい。」
斎は酔った勢いもあって気が大きくなっています。おかみらは斎をなだめるのですが斎はいっこうに聞く耳を持ちません。
下女がおこんを呼びに行きました。しばらくして、下女がおこんを連れて戻って来ました。
おこんは斎の前に正座をすると、何度も何度も謝ります。下女とおかみが斎をなだめようとします。しかし斎の機嫌はなおりません。
「面白うない。不愉快じゃ。」斎は鬼がとりついたかの様でした。
頭をさげているおこんをにらみ付けます。斎は普段はおとなしく、物静かな好青年なのですが 酒がはいると 気が大きくなり、行動が粗野になる帰来があります。
今の斎は誰がなだめようと聞く耳を持たないでしょう。
斎は腰を上げると「帰る」と一言いい ふらふらと玄関の方へ歩いていきます。
よろめく足で玄関まで行き、草履の足をとおします。
下女が刀掛けから斎の脇差を渡します。斎は黙って刀を受け取るとのれんを出ました。女将、下男、下女 ら4人が斎の後を追うようにして外へ出ます。
「先生、今日は本当に申し訳ありませんでした。」
頭を下げている彼らの方を 何か言いたげにゆっくりと振り返ります。
斎は何もしゃべりません。今日の斎は普通じゃありません。何かにとりつかれたとは今晩の斎のことを言うのでしょう。
何を思ったのか 脇差を抜き「ばかにしやがって!」言うやいなや鬼のような形相で下男の宇助の額に切りつけました。額がザックリ割れ血があふれ出てきました。
宇助は両手で額をおおいながら「わー」と叫びながら油屋の屋敷に。
興奮した斎は宇助の後を追いかけます。大騒ぎになりました。逃げ惑う客、下男、下女たち。血刀を振り回しふらふらとした足どりで追い回す斎。
右往左往の大騒ぎです。血刀を振り回している斎には誰も近寄ることができません。階段のところで額を両手でおおいうずくまっている宇助のところへ斎はふらふらした足取りで歩み寄って行きます。
斎は「イェーイ」という奇声を放ち横殴りに刀を振り回しました。
その刀は宇助の体には当たらず指をかすめました。斎に刀術の心得があれば
間違いなく宇助はその場で絶命していたでしょう。
幸いなことに斎には刀術の心得はありませんせした。でも宇助の親指はざっくり割れ かろうじて切断は免れましたが皮膚一枚でつながっている状態です。
血がしたたり落ちます。宇助はあらんばかりの大声で「だれかー」と叫びます。
斎は宇助の気迫に押されたのか とどめを刺すのをやめ、逃げ惑う下男、下女らのあとを追って行きます。主人清右衛門は同じ町内の親戚に不幸があって留守で、女房のおしめ(38歳)は病気で2階の奥の間に寝ておりました。
斎は階段をのぼり、おしめが寝ている奥の間に入って行きました。
奥の間にはおしめの看病をしている主人の母さき(58歳)がおりました。
斎はさきに切りつけました。さきは首をざっくり切られ絶命しました。
斎はふらふらと廊下へ出て、 血刀をさげて廊下を降りていきます。
一階の菊の間で酒宴をしていた3人の藍玉商人と相手をしていた3人の茶くみ女は騒ぎを聞きつけ廊下へ出ます。
斎の座敷のとなりで飲んでいた3人の藍玉商人は 斎の怒鳴り声や「ガシャン」
という音を耳にしましたが、たちの悪い酔っはらいくらいにしか始めは思っていなかったらしく、あまり気にもしませんでした。
がその騒ぎがだんだんと大きくなり、廊下を逃げまどう足音、女の悲鳴を聞くにつけ {ただごとではない}そう思い始めるのにそんなに時間はかかりませんでした。
彼らはふすまを開け廊下に出ます。彼らが目にしたのは凄惨な光景でした。
廊下には血痕が飛び散り、血が飛び散ったふすまが倒れ廊下をふさいでおります。{な なんたる・・・}言葉を失います。
倒れたふすまの向こうに、刀を杖がわりに階段に腰を下ろしている斎を目にします。3人の中で一番体の大きい岩次郎が 斎にすきあり とみるや斎に背後から忍び寄ります。
岩次郎は地元では名の通ったけんか上手で剣は小野派一刀流を学び目録までいった腕前、また関口流柔術の心得もあります。
岩次郎の兄は地元阿波藩の城下はなしで町人相手の剣術道場を開いており、岩次郎は子供のころより兄に剣の手ほどきを受け育ちました。
成長した岩次郎は親分肌で義侠心にあつく、みんなから「岩次の親分」と慕われておりました。一目おかれる存在だったのです。
話を元にもどします。彼は廊下をすり足で音を立てずに忍び寄って行きます。音を立てずに といっても当時の建物の廊下を音を立てずに歩けるわけもなく ・・ ギシ ギシ・・ と足を踏みだす度に どうしても音が出ます。
斎はまだ気づきません。かなり疲れたのでしょう。
岩次郎は息をころして近づいていきます。岩次郎には{組みついたらこっちのもんじゃ}という意識があります。事実 もし組み付かれたら体の小さい斎にはどうすることもできないでしょう。「もう少しじゃ」岩次郎は思います。
岩次郎は歩を止め 体勢を整えます。いっきに飛び掛ろうというつもりです。
それがいけなかったのです。立ち止まらずにいっきに斎に飛び掛っていれば
あるいは成功していたかもしれません。
斎は背後の気配を感じ、立てていた刀を力まかせに横にはらったのです。
刀の先が岩次郎のあごに当たりました。岩次郎は両手であごをおさえ斎のもとを離れます。右の頬から10センチほど左の頬にかけて斬られました。
深手です。急所をはずれていたからよかったものの 首に当たっていたら命はなかったかもしれません。
藍玉商人の相手をしていた3人の茶くみ女のひとりに おきし というのがいます。彼女は廊下におしりをつけたまま立ち上がることができません。
逃げようと必死でもがいているのですが腰が思うように動かないのです。
斎の振り回した刀が彼女の太ももを斬りました。
彼女はそのまま倒れこんでしまいました。ピクリとも動きません。
おしかはふとももからの出血がもとで亡くなります。「おこんは おこんはどこじゃ。おこんをここへ呼べい」斎は大声で叫びます。
肝心のおこんは裏口から逃げ、近くの大林寺でかくまってもらっていました。
今でしたら電話一本で警官が来てくれますが当時は電話などありません。
夜になると街灯などもありませんから外は真っ暗です。
御園村の山田奉行所までは早く歩いて1時間ほどかかります。
奉行所へ行ったところで閉まっているでしょう。
油屋におこんがいないことを悟ると斎は外へ出ます。そして刀をさげたまま闇の中に消えてしまいました。
結局、その場で2名死亡 後1名死亡。 計3人の死者を出し負傷者6名を出す大惨事になってしまいました。
なぜ斎がこのような凶行に走ったのかは、よくわかっていません。酒の相手をしていた娼妓を他の客にまわされ、冷遇されたことに怒ったのですがそんなことは郭では日常茶飯事でしょう。そんな理由で青年医師としての有望な未来を捨てるでしょうか。斎自身もその理由を明らかにせぬまま逃亡のはて 3日後 死体で発見されます。自殺でした。
寛政年間はお伊勢まいりの一大ブームで、全国からお伊勢まいり(おかげまいり)の人たちが集まり大変にぎわっておりました。油屋騒動の事件は彼らにより全国に広まっていきました。10日後には松阪の芝居小屋で奈河篤助という作者によって「伊勢土産菖蒲刀(いせみやげしょうぶがたな)」という演目で上演されています。同時期に京都では「伊勢土産河崎音頭」という演目で上演され、。52日後には有名な脚本家 近松徳三により大阪の角座で「伊勢音頭恋寝刀(いせおんどこいのねたば)」が上演されました。そうした経緯をとり油屋騒動の一件は後々まで語り継がれることになるのです。
お紺の名は全国に知れ渡ることととなり、妓楼油屋はお紺目当ての客で大変繁盛したそうです。
お紺はその後、どのような人生を送ったかはようと知れません。
ただ油屋騒動より33年後 文政12年、病死したと記録にあります。享年49歳でした。彼女の亡骸は油屋の裏手のある大林寺に埋葬されます。
後、孫福斎の墓も大林寺に立てられ 比翼塚としてお紺のとなりで眠っています。お紺の死から180年ほど経った現在、油屋騒動を題材とした歌舞伎 伊勢音頭恋寝刀(いせおんどこいのねたば)は忠臣蔵と並んで人気のある演目のひとつになっております。「おこんは おこんはどこじゃ。おこんをここへ呼べい」斎は大声で叫びます。
肝心のおこんは裏口から逃げ、近くの大林寺でかくまってもらっていました。
今でしたら電話一本で警官が来てくれますが当時は電話などありません。
夜になると街灯などもありませんから外は真っ暗です。
御園村の山田奉行所までは早く歩いて1時間ほどかかります。
奉行所へ行ったところで閉まっているでしょう。
油屋におこんがいないことを悟ると斎は外へ出ます。そして刀をさげたまま闇の中に消えてしまいました。
結局、その場で2名死亡 後1名死亡。 計3人の死者を出し負傷者6名を出す大惨事になってしまいました。
なぜ斎がこのような凶行に走ったのかは、よくわかっていません。酒の相手をしていた娼妓を他の客にまわされ、冷遇されたことに怒ったのですがそんなことは郭では日常茶飯事でしょう。そんな理由で青年医師としての有望な未来を捨てるでしょうか。斎自身もその理由を明らかにせぬまま逃亡のはて 3日後 死体で発見されます。自殺でした。
寛政年間はお伊勢まいりの一大ブームで、全国からお伊勢まいり(おかげまいり)の人たちが集まり大変にぎわっておりました。油屋騒動の事件は彼らにより全国に広まっていきました。10日後には松阪の芝居小屋で奈河篤助という作者によって「伊勢土産菖蒲刀(いせみやげしょうぶがたな)」という演目で上演されています。同時期に京都では「伊勢土産河崎音頭」という演目で上演され、。52日後には有名な脚本家 近松徳三により大阪の角座で「伊勢音頭恋寝刀(いせおんどこいのねたば)」が上演されました。そうした経緯をとり油屋騒動の一件は後々まで語り継がれることになるのです。
お紺の名は全国に知れ渡ることととなり、妓楼油屋はお紺目当ての客で大変繁盛したそうです。
お紺はその後、どのような人生を送ったかはようと知れません。
ただ油屋騒動より33年後 文政12年、病死したと記録にあります。享年49歳でした。彼女の亡骸は油屋の裏手のある大林寺に埋葬されます。
後、孫福斎の墓も大林寺に立てられ 比翼塚としてお紺のとなりで眠っています。お紺の死から180年ほど経った現在、油屋騒動を題材とした歌舞伎 伊勢音頭恋寝刀(いせおんどこいのねたば)は忠臣蔵と並んで人気のある演目のひとつになっております。