新聞の記事より気になる記事、興味ある記事 等を気ままに載せてみました。
第6回は、太平洋戦記 沖縄戦です。
[中日新聞 2012年4月23日 朝刊より]
(目次)
第1回
満州砲兵490部隊のシベリア抑留記 ①
満州砲兵490部隊のシベリア抑留記 ②
満州砲兵490部隊のシベリア抑留記 ③
満州砲兵490部隊のシベリア抑留記 ④
2年前新潟で行方不明・びっくり沖縄で生存
陸軍石部隊と島人の沖縄戦 ①
凍りついた松林を男たちの引くソリが進む。あばらをむき出しにした全裸の遺体が荷台に横たわる。
全身を分厚い外套(がいとう=オーバーコート)で包んだ男たちは何も話さず雪を踏みしめる音だけ
が響く。名古屋市中村区の四百九十部隊上等兵 池田鐘一(89)は死んだ仲間の葬式の中にいた。痩せ
細った遺体は軽くそりを引く手ごたえがないほどだった。
墓穴を掘るが凍った土は10センチも
掘れない。遺体を地面に置き、雪やゴミをかぶせた。「すまんな」 手を合わせ心で詫びた。
1945年(昭和20年)シベリアに連行された兵の多くは最初の冬を越せなかった。遺体は裸にされ気をつけの姿勢
で凍る。丸太のように倉庫に積まれる戦友たち。
池田が 「早く埋めてやってくれ」 とソ連兵に頼むと
「黙れ」と一喝された。自分たちで埋蔵するしかなかった。森林伐採や土木作業の合間に与えられた 食事は
厚さ2センチほどの黒パン1枚と、キャベツの葉が数枚入ったスープだけ。
全員が栄養失調になった。
当時33才の2等兵 織田稔(愛知県春日井市)はその惨状を手記にした。太ももの肉がそげおち手でつかむと
片手の輪の中におさまった。足に力が入らない。便所の踏み台にもあがれず、小便を垂れ流してしまう。
一日分の黒パンを切り分ける夜は収容所に殺気がこもる。ほおがこけ、目玉を見開いた兵たちが当番の手元を
凝視する。「あいつのほうが多いぞ」 ナイフを入れる当番の手が震える。分銅や定規で正確にはかり
切りくずも均等に分けた。
愛知県刈谷市の一等兵安形光雄(87)は夜になると、三河湾の日間賀島や笹島
で食べたタイの塩焼き、はまちの刺身を思い出す。
「あの魚が食べたいなあ」生つばを飲み込む音が響く。
「うるさい!」 空腹にたえかねた兵が怒鳴った。飢えた兵は作業の合間、食べ物を求めて雑木林をさまよう。
草花はもちろんヘビ、ウサギ、イヌも捕まえて丸焼きにした。
愛知県安西市の一等兵 横井清正(85)は
道ばたで凍ったジャガイモを拾った。
宿舎に戻って飯ごうで煮ると鼻をゆがめる臭気が立ち上った。黄色い
液体とわらが浮いている。ジャガイモではなく馬糞だった。
横井はある日、仲間に呼び出された。7,8人が
輪になる。一人が切り出した。「この中で誰かが死んだらそいつの肉を食って生き延びよう。横井も真顔でうなず
いていた。生きることで精いっぱいで全く余裕などはなかった。指を針で刺して血判し、名前を書く。「故郷へは
栄養失調で死んだと知らせる」 と約束したが実行はしなかった。衛星状態が悪化し赤痢がまん延する。池田も赤痢
で倒れ、一日の四八回も下痢をした。「次は俺の番か」 丸太になって倉庫に積まれる自分の姿が脳裏に浮かんだ。
夜明け前、宿舎入口につるしたブリキ缶をソ連兵が打ち鳴らし起床の号令をかける。隣の兵が起きてこない。
毎朝、誰かが死んでいた。
遺体を囲む兵たちが目配せをする。次の瞬間、遺体のわきに置かれた夕食のパンを
奪い合う。戦友が死んだことは監視兵に報告しない。
つづく
殺気立つ人垣の輪にひとりの男が放り込まれた。おびえた目で周囲を見上げ足をガタガタと震わせている。軍服姿の50人
の視線が男に迫る。「おまえのような奴が労働者・農民のソ連の発展っを妨げるのだ。」 口火がきられた。
1947年(昭和22年)夏、静岡県の490部隊一等兵 杉本源作(87)は東シベリアのハバロフスクの収容所にいた。「つるし上げをやるぞ。」 道路工事
作業から帰ると、若い兵士が皆を中庭に集める。足にけがをして、ノルマを達成できなかった者が標的いなっていた。
「さぼりたいのか」「反動的だ」「日本へ返すな」。うつむく男に攻撃はⅠ時間もつづく。かばえば自分が標的になる。杉本も「同感、同感」と
こぶしを上げ続けた。
シベリアへ抑留されて7から1~2年が過ぎると、収容所のあちこちでこうしたつるし上げや批判大会が開かれた。「あれは当事者よりも、私らのように
見ている人を脅す意味があった」。と杉本は思う。耐え切れず逃げ出して、ソ連兵に撃たれた者がいた。自殺する者もいた。暴力以上に人間を追い詰める
汚いやり方だった。
抑留当初は、軍隊の規律が残っていた。将校は動かず、食事を上納させた。栄養失調で死ぬのわ兵隊ばかり。愛知県安西市の一等兵
横井清正(85)は仲間の不満を聞く。「戦争は終わったのに、なぜあいつらは特別待遇なんだ」。
兵が襟の階級章を外していく。ソ連は揺らぎを見逃さなかった。将校は軍国主義の象徴であった。不満を持つ兵を誘い込み、共産主義を宣伝する「アクチブ」
に仕立てていく。日本人捕虜が日本語で書いた「日本新聞」が配られた。「人民政府樹立」「天皇制打倒」と見出しが躍る。日本の情報に飢えた兵はむさぼり読んだ。
毎夜、」勉強会が開かれる。アクチブが「今、日本では地下足袋が1500円もするんだ」。と資本主義の害を吹聴する。帝国主義は発展すると、領土拡張の野望
を起こす。そのなれの果てが日本だ と。「だんだんソ連の話がまともに思え頭がおかしくなってくる感じだった。静岡県清水区の二等兵 鈴木修治(86)
は思い出す。
知識を身につけた兵隊たちは、食堂で将校と対決した。「働かずに飯を食うのか」。軍では絶対服従だった兵が牙をむいている。
将校は青ざめた。「民主化運動に協力すれば帰国が早まる」。とうわさされた。実際、帰国はアクチブが優先され、参加希望者が激増した。「早く帰りたい、苦痛
から逃れたいという心理につけこんできた」。と横井は言う。作業班長だった杉本の元には「あいつは作業をさぼっている」「部下をいじめていた」と仲間
を売る兵隊もいた。
自ら「軍国主義者だ」という名古屋市中村区の兵長、中川民義(86)抑留が3年を超えたころ「アクチブになりたい」と志願した。
収容所をたらい回しされ、「このまま帰れないのでは」と不安が募っていた。気づけば 「赤旗に頭を下げる方が得だ」 と思わされていた。
つづく
トロッコを引く鎖が肩の肉に食い込む。れんが百個を山積みにした鋼鉄車両がゆっくりとレールを進む。「アジン ドウバ
(1,2)」 前後で鎖を握る最後の労働者が声を絞り出して呼吸をあわせている。
194年(昭和21年4月)、静岡市の490部隊一等兵 山本明治(87)は
シベリア ウランウデのレンガ工場にいた。土を練った生レンガを乾燥室に運ぶ。重さ700kgもなるトロッコを引き、一日80回以上も往復する。
ペアを組んだのがロシア人のトーシャだった。当時21才だった山本より4つほどの年上。アジア系の顔立ちに青い目が印象的だった。社会主義のソ連では
女性が工場で働くのは一般的。貧しいシベリア地域では、抑留者と同じ職場で働く女性もいた。昼休み 山本は食事もせずに目を閉じる。
「どうして食べないの?」。トーシャが尋ねた。前夜に配られるわずかな黒パンは、空腹に耐えきれず食べてしまう。昼食に食べるものは何もない。
トーシャは自分のパンやサラダを全部くれた。次の日からは二人分の昼食を自分から持ってきてくれた。夕食にも招かれた。トーシャの家は家事で
焼けた跡のような木造家屋だった。衣服も擦り切れたものばかり。貧しい暮らしなのに捕虜の食事まで世話してくれる。「彼女がいたから私は生き
られた。トーシャの優しさは生涯忘れない。
山本は日本で東海道線の運転手をしていた。トーシャの夫や子供たちは「日本では電気で電車が走
るのか」と驚いた。「でも、戦争で負けたからあなたはここにいるのね」トーシャは言った。
診療所の建設工事に回された浜松市天竜区の上等兵、
溝口清司(87) は作業を見に来ていた十九才の女性ニーナと知り合った。「日本の兵隊はよく働くので興味があった。」のだと」言う。溝口が中国人に
日本語を教える教師をしていたと知ると、
「若いのにすごい」 と尊敬のまなざしをむけた。ニーナは日本の歌舞伎や能について知りたがった。
溝口は片言のロシア語で懸命に話した。
彼女といるときだけは捕虜であることを忘れた。毎日のように家へ通い、ニーナの父の肖像画
を描いて贈った。日本兵を家畜扱いするロシア人とは異なり、職場や街で出会うロシア人は人情深かった。「おまえも労働者の仲間だ」と肩
をたたいてくれたり、「柔道を教えてほしい」と頼んできたりした。「娘を嫁にやる。」と言われた兵もいた。「日本人だったら捕虜を見下すが彼ら
は対等に接してくれた」と溝口は言う。 レンガ工場での労働が二年が過ぎてもトーシャは山本のために昼食を持ってきた。何かお礼をしたい。
山本は荷物の底にずっと隠し持っていた新品の赤いふんどしを取り出した。「海に落ちてもサメが寄り付かないから」と母が出征時に持たせてくれたお守り
の品。「ネッカチーフにでもしてくれ」とトーシャに手渡した。戦争で困窮していたソ連で木綿の赤い布地は貴重だった。「ありがとう」 トーシャは
心からうれしそうだった。少しだけソ連の人たちとこころが通い始めた。
皮肉にも彼女たちとの別れが近づいていた。
つづく
シベリアの平原を進む貨物列車の汽笛が近づいてくる。扉の隙間からカーキ色の軍服が見えた。壁の通気口から手のひらが
伸び左右に揺られる。「ダモイ(帰国) 列車だ!」線路沿い歩いて缶詰工場」に向かっていた愛知県刈谷市の四九〇部隊一等兵、安形光雄(87) たちは
地平線に列車が消えるまで見送った。
残酷な抑留に国際的な批判が高まり、ソ連は1946年(昭和21年)末から日本兵を帰国させ始めた。「スターリン
万歳」と横断幕を掲げたダモイ列車が抑留者を極東のナホトカへ運んでいく。作業の途中、収容所で休憩中にソ連兵から声がかかる。
「名前を呼ぶ
ものは集まれ」。「帰れるのか」何の説明もないまま安形も汽車い乗った。「ダモイ」ほど抑留者を惑わし絶望させたロシア語はない。
「この
作業が終わればダモイだ」と何度も騙されてきた。ナホトカに着いても気が抜けない。「帰国したら共産党に入党せよ」とソ連は誓約書を書かせた。
「思想教育が足りない」と収容所に戻される者もいた。47年の夏、安形は引揚げ船「信洋丸」の甲板に足を踏み入れた。抑留からああ1年8か月。白衣
の日本人看護婦が目にまぶしい。甲板n唐傘が干してある。「これで生きられる。死なずにすんだ」。よう確信した。船底の畳に寝ころがり、和食が用意
された。名古屋市南区の一等兵 加藤日吉(87)にとって4年ぶりの米の飯。「夢にまで見た。黄金に輝いていた」。二晩 航海しあころ、水平線に緑の島
が浮かんだ。舞鶴港が近づく。「ご苦労様でした」漁船の漁師が手を振っている。桟橋で待つ家族たち。夫や息子の名を書いたのぼり旗がはためく。
静岡県磐田市の兵長 鈴木喜一(90)は舞鶴から故郷に向かった。途中、車内で少女二人に「おにいさん」と呼びかけられた。妹たちであろうか。おかっぱ
頭の小学生の記憶しかない。「誰だ」とも聞けず「うん」とうなずいた。妹たちと何を話したのか鈴木は覚えていない。「夢にまで見た家族なのにどうしても
親しみがわいてこなかった。」と日記に書いている。
舞鶴では米軍が帰国者の思想を取り調べ、ソ連の情報を求めた。共産主義を宣伝する「アクチブ」
になっていた鈴木も5日間留め置かれた。
磐田駅に着くと、出迎えた数十人を前に演説しようとした。公安当局の目が光る。先に帰国していた収容所
仲間が駆け寄ってきた。「過激な言葉はやめておけ。就職にもひびくぞ」食糧を奪い合い、仲間を密告しつるし上げた抑留生活は兵士らの心と体を奥深く
蝕んでいた。静岡県沼津市の一等兵 杉本原作(87)も4年半ぶりの家族との対面に涙が出なかった。「シベリアでは誰も信じられず、ひとときも気が抜け
なかった。人間的な感情がなくなっていた」と言う。家に着くと母が「風呂に入れ」と勧めてくれた。服を脱いだ背中越しで、母や妹が泣き出した。
「骨と皮しか残ってねえ」。黒く変色した皮膚の下に、あばら骨が浮き上がる。杉本は初めて変わり果てた自分の姿に気づいた。
終わり
元抑留兵への補償
1946(昭和21)年末から56年にかけ、旧ソ連やモンゴルから帰国した元抑留者47万人は、「共産主義者」との偏見や差別
にさらされ、強制労働に対する国の補償も進まなかった。元抑留者は1979年に全国抑留者補償協議会を結成。ピーク時には8万人が参加し訴訟などで保障
を求めたが政府は銀杯や旅行券といった慰労品で応じてきた。
民主党へ政権交代したことで戦後65年の2010年6月、元抑留者に特別給付金
を支給する特別措置法が成立した。対称は生存者に限られ、帰国の時期に応じて一人につき25万円~150万円を支給。
平和記念事業特別基金に
よれば、今年(2012年)1月末で、約6万6700人に計186億円が支払われた。請求期限は今年(2012年)3月末までである。
新潟県刈羽郡西山町の海水浴場で60年8月、同僚らと遊泳中行方不明となった群馬県の男性が那覇市内で生存していた
ことが2年2か月ぶりに確認された。
新潟県警柏崎はこの男性から事情を聴いたが、当時、海で泳いでいたこと以外記憶がない、と言う。
行方不明だったのは、群馬県吾妻郡吾妻町岩井、元同県渋川林業事務所職員剣持賢一さん(28)。
同署の調べでは、剣持さんは60年8月7日
(昭和60年8月7日)午後
3時ごろ、西山町の石地海水浴場で、林業事務所の同僚ら13人と遊泳中、行方不明となった。同僚のひとりが、沖合約100メートルで剣持さんが
泳いでいたのを目撃していることや着ていた服や所持品が残されているなどから、同署は溺れた可能性が強いと見て5日間にわたって付近一帯
を捜索したが、発見できず、打ち切った。
ところが、行方不明から2年2か月あまりたった今月13日(昭和62年10月13日)午後9時ごろ、剣持さんから自宅に「那覇市内
のホテルに泊まるんだが、お金がない。送ってほしい。」と、突然 電話があった。驚いた家族が、翌14日、ホテルに出むき、賢一さんと確認した。
迎えに行った父親の弘一さん(58)によると、賢一さんは、白のトレーナーに紺のジーパン姿で、持っていたリュックサックに1万2,3千円入りの
二つおりの財布があった。やや痩せた感じだったが、髪形、顔つきも以前とかわった様子はなかった。
「どうしたんだ」と言うと、きょとんとして「西山町で海水浴をしていたのは覚えているが、その後のことは全くわからない」 と話した という。
柏崎署は二十日午前、賢一さんを呼んで、事情を聴いた。それによると、賢一さんが我にかえったのは十一日夜、沖縄・恩納村の万座ビーチ
あたりで、気がつくと服を着たまま胸まで海につかっていた。多少、海水を飲んで、咳き込んでいると、自分がだれであるか、名前、家族のことを
思い出した。しかし、石地海岸で泳いでいた、という記憶はあるが、その後、自分がどうしたか、なぜ沖縄まで来たか、全く覚えていない、という。
米軍が1945(昭和20年)年3月26日に慶良間諸島に、4月1日に沖縄本島に上陸して始まった。日本の沖縄守備軍(第32軍)
10万人に対し、米軍は総勢55万人。大本営の「作戦計画大綱」は沖縄を「本土防衛のための前線」と位置づけ、米軍の本土侵攻を遅らせるための事実上
の「捨て石」にする作戦だった。
首里に司令部をおいた日本軍を米軍は豊富な火力で圧倒。守備軍は南部に撤退し、6月23日 司令官牛島満中将が
自決し、組織的戦闘は終わった。
日本軍は航空機で米艦船に体当たりをする特攻攻撃を発動。戦艦大和は九州南西沖で撃沈され、3000人以上が
死亡した。「ひめゆり隊」などの学徒隊や、多くの民間人も前線に動員された。死者は沖縄県民だけで9万4千人、米軍も1万4千人
以上に及ぶ。第62師団(石部隊)は中国から転戦した兵に現地召集兵などを加えた1万4千人を擁し、守備軍の主力として戦った。
1972年
(昭和47年)日本復帰まで米国の統治を受けた沖縄には、現在 国土の0,6%にすぎない県土に、在日米軍施設の74%があ集中している。
兵士たちの手にする汗まみれの方位磁石が、西へ東へ激しく揺れる。
普段は食糧や繭を運ぶ貨物船には窓もない。
米軍の潜水艦攻撃を避けるため、ジグザグ航行を続けているようだ。家畜のように押しこめられた船底に、したたる汗と機械油の臭いがこもる。
「どこへ行くのか」 内地に転戦とだけ告げられた兵士たちに不安と期待が交る。1944(昭和19)年8月、中国戦線にいた陸軍石部隊8千人は上海に
集められ、民間から徴用した対馬丸など3隻に乗り込んでいた。
甲板に警備に出た愛知県清須市出身の一等兵 西脇肇(86)は北斗七星を背
にしているのに気づいた。やがて南の水平線に緑の島が浮かぶ。船団は沖縄へ到着した。米軍は太平洋で島伝いに日本軍を撃破し北上している。
前月にはサイパン島が陥落し、フィリピンや沖縄に戦火が迫っていた。
那覇の港には、九州へ疎開する子供たちと教師が集まっていた。石部隊を降ろした対馬丸も疎開船に転用され、二日後
には834人の学童を含む1788人を載せて長崎に向かって出航した。九才だった沖縄県大宜味村の平良啓子(77)は「本土に行けば汽車に乗れる」
と旅行気分。「来年春には帰れるから」 と見送りの母は言った。 もんぺ姿で背負ったランドセルに、紙不足でも勉強をするようにと、雑誌の余白
を束にして詰めてくれた。
だが、周囲海域はすでに米軍の潜水艦が動き回る戦場だった。「今夜は危ない」。二日目の晩、兵士が子供たちに
救命胴着を着せた。「大声をだすな 海にゴミを捨てるな」。啓子も白い浮き袋を体にくくりつけ、甲板に寝転んだ。無邪気な眠りを破ったのは
、船底から響いた轟音だった。船首の方で炎があがる。傾いた帆柱を人々が争ってよじ登る。船と一緒に沈まぬよう、泣き叫ぶ子供を兵士が次々
と海に放り込む。海に浮かんだ子が、足元をガラガラと駆け抜ける音を聞いた。アメリカの潜水艦が放った3発目の魚雷。対馬丸は真っ赤な火柱
をあげ那覇の北400キロに沈んだ。啓子は救命いかだを目指して泳いだ。浮かぶ遺体の髪がふれる。二畳ほどの竹組みにやっと手を伸ばすと、後ろ
から男に両足をつかまれた。海中に引きずり込まれ、ぶくくぶくと泡をはきながら、夢中で男を蹴とばした。
それから6日間、啓子は海を
漂流する。いかだの上で母親の胸にすがりつく赤ん坊。母乳がでない乳首を血がでるまで噛んだ後、死んだ。年老いた女性は目を見開いたまま息絶え
海に落ちた。別のいかだの近くで、人より大きなサメが波から飛び出すのが見えた。灰色のからだが口を開く。二度、三度。その度にいかだの上
の人数が減った。
敵捜索のため上空を飛んでいた当時22才の海軍少尉 長谷川春一(愛知県津島市)は、対馬丸沈没の翌日に漂流者を発見
している。「顔、顔、顔 遭難者の顔がはっきり見える」と手記にある。「ガンバレ、救助手配する」と書いた紙を筒に入れて投下した。付近の
漁船を誘導し、多くの生存者が救助された。
啓子も日の丸のついた飛行機を見つけ、懸命に手っを振った。漁船は来なかったが無人島に
流れ着いた。長谷川とは戦後、再会を果たすことになる。
生存者はわずか280人。対馬丸の沈没は重大機密とされ、助かった子供まで
憲兵に監視された。西脇ら沖縄の兵士たちには何も知らされていない。
つづく