慶応3年11月15日。 坂本竜馬 中岡慎太郎は 土佐藩御用達 醤油屋近江屋新助方の母屋の2階にて暗殺されました。十津川郷士やら松前藩士やらと名乗る手合によって若き命を絶たれたのです。さぞかし無念だったでしょう。
維新回転の夜明けを見ることなく非業に散った若き命。竜馬33.慎太郎30.
竜馬は33才の誕生日に暗殺されたのです。 この若者は何の学問もなく、門閥もなく、ただ己の志のみで幕末を生き抜き 当時、犬猿の仲であった大藩 長州と薩摩を結びつけました。薩長連合なくば維新の夜明けを見ることなく列強諸国の餌食になっていたかもしれません。維新の立役者、素浪人竜馬はなぜ暗殺されたのでしょうか。それは幕末史最大の謎のひとつで 明治政府は、維新以前の罪は問わないとの方針を打ち出したにもかかわらず、竜馬暗殺の下手人探索は続けられたのです。でも結局、真相は闇の中。佐々木唯三郎 今井信郎以下7人。見廻組犯行説が定説となっております。
当初は、新撰組犯行説が大勢を占めていました。事件の急報が土佐藩邸、薩摩藩邸にもたらされると、谷干城 田中光顕らが近江屋にかけつけました。竜馬は脳をやられて息絶えておりました.
慎太郎は深手を負いながらもまだ息がありました。下手人の手がかりは3つあり、そのひとつは犯人が現場に残していった蝋色の鞘。2つめは慎太郎が聞いた「こなくそ」ということば。3つめは瓢亭の焼き判のある下駄。
鞘については、事件の一報を聞いて駆けつけてきた伊東甲子太郎一派のひとりが「この鞘は新撰組の原田左之助のものに相違ない。見たことがある」と証言
しました。「こなくそ」は四国伊予松山の方言で「こんちくしょう」の意味
最後に瓢亭の焼き判のある下駄。その下駄は京都先斗町にある料亭瓢(ひさご)亭のもので、その料亭は新撰組の面々がよく出入りしていたとのこと。.それらのことから新撰組の犯行との見方が大勢を占めたのも無理のないことでした。でも考えてみてください。プロの刺客がわざわざご丁寧に刀の鞘と下駄を残していくでしょうか。 素人の目からみても、不自然この上ありません。なにものかが新鮮組の仕業にみせよう-としくんだに相違ありません。 しかし、新撰組局長 近藤勇にはアリバイがありました。11月15日は、会津藩の酒宴にまねかれて、飲めない酒を飲み、時勢を論じておりました。離党と称して新撰組を脱退し、御陵衛士と名のり薩摩藩の庇護下にある伊東甲子太郎一派の粛清にやっきになっておりました。
伊東は藤堂平助を伴い11月13日、竜馬が暗殺される2日前に近江屋を訪れ、竜馬らに「新撰組が先生方を探索しています。身辺十分気をつけられますように」とわざわざ忠告しています。 遺留品の蝋色の鞘といい、瓢亭の刻印のある下駄といい プロの刺客がそのような不始末をしでかすわけがありません。新撰組の仕業にみせるためにわざとおいたと思われます。(蝋色の鞘は後、見回り組世良敏郎のものと判明)。
竜馬の存在が邪魔で,新撰組にうらみをいだいているものの犯行と思われます。長州や薩摩の志士たちはずいぶんと新撰組には泣かされました。
彼らは新撰組を恐れていましたし、憎しみもみなもっていたことでしょう。
でも新撰組は京の不逞浪士をとりしまり、治安をまもるれっきとした公の警察機関であります。
薩摩藩のことについて少しふれます。
薩摩藩は藩論が討幕一色にそまっており、軍備をととのえ長州藩と手をにぎり倒幕の準備をととのえてまいりました。西郷隆盛などは廃墟の中から新しい国が生まれる という信念をもっており断じて武力による倒幕をとなえておりました。竜馬の考えは少し違っており、彼は倒幕には異存はありませんでしたが、あくまでも無血革命を考えておりました。倒幕したあかつきには幕府の首脳陣にも新政府にはいってもらいたい と考えておりました。
薩摩藩は倒幕に寄与したものだけで新しい国を創っていこうという考えで、幕府はあくまでも敵で幕府の面々が新政府につかえることなどまるっきり眼中になかったのです。すべて排除してしまおうと考えていたのです。
薩摩藩は260年ほど前の関が原のあの屈辱を忘れていなかったのです。ずっと幕府にうらみをもって今日まできたと言っても過言ではありません。
武力倒幕の急先鋒の藩なのです。
竜馬が暗殺される一月前に、時の将軍徳川慶喜は土佐の後藤象二郎の提唱する船中八策を受け入れ政権をあっさりと朝廷に返還してしまったのです。大政奉還です。船中八策は竜馬が作成したもので後藤に託したのです。
薩摩藩としたら倒幕の大義名分を失ってしまったわけです。刀を振り上げたのはいいが鞘におさめなくてはならなくなりました。
薩摩藩の首脳部の中には竜馬のした行動を迷惑がっていたものも少なくありませんでした。薩長連合の立役者である竜馬のした行動を誰も表立って批判はできなかったのです。
それだけ完璧な策でした。薩摩の暴走を止め、無血のうちに政権を朝廷に返還せしむることは竜馬の念願とすることだったのです。
十五代将軍慶喜が二条城にて、諸大名を前に260年間続いた徳川の政権を朝廷に返還せしむることを発表しました。 後、そのことを耳にした竜馬は、「よくぞ決心してくれた。よくぞやってくれた。さぞかしお辛かっただろう。最大の功労者は慶喜公なるぞ」と 人目もはばからず大声で泣き涙したそうな。
薩摩藩にとって竜馬はうっとうしい存在になってきたのです。
なんとしても武力で幕府を倒し、政権をとりたかったのです。
竜馬が暗殺された近江屋は薩摩藩出入りの醤油屋でした。主人新助は勤皇の志があつく、薩摩藩のたのみで竜馬の隠れ家を提供したのです。
竜馬が京に入ったことは見回り組や新撰組の耳にも入っていたと思います。
しかし居所までは突き止めるすべがありませんでした。
薩摩藩の庇護のもとに新撰組を離党した伊東甲子太郎一派がいます。彼は新撰組の参謀を勤める最高幹部のひとりでした。伊東は見回り組にも知り合いが多いはずです。竜馬の居場所を見回り組に教えたのはおそらく伊東ら一派かもしれません。
伊東は薩摩藩の指示で見回り組の組頭佐々木只三郎に竜馬の居場所近江屋を教えたことは十分考えられます。。薩摩の軍を牛耳っていたのは西郷隆盛でしたが 彼は竜馬暗殺の報に接するや「坂本どんはこれからの日本になくてはならないお方じゃ。おしい人を亡くした。日本の最大の損失じゃ。 後藤! おぬしらが坂本どんをかくまっておればこんなことにならんかったのじゃ。 薩摩、長州をさがしてもあれほどの御仁はおらぬわ。」と大声を出して泣いたといいます。そして 「下手人を全力をあげて捜査せい」 と命じたそうな。
彼は薩摩藩がからんでいたことは知りませんでした。薩摩の過激な連中が上層部には連絡せずに独断でやったのかもしれません.
かつて新撰組だった伊東らは新撰組が祇園の瓢亭をよく利用し、また伊予出身の気の荒い原田左之助が「こなくそ」という方言をよく使っていたことも知っていたことでしよう。「こなくそ」とは四国は伊予の方言で 「こんちくしょう」 という意味です。竜馬の居場所を知った見回り組としても表立っての襲撃ははばかれました。竜馬は薩長連合締結の立役者であり、薩長連合あって倒幕軍を組織できたのです。薩摩一藩ではとうてい幕府に対抗できませんでした。
長州とて同様です。当時、犬猿の仲だった長州と薩摩を結びつけるのは不可能に近く、並大抵のことではありませんでした。それを薩摩と長州の両方に顔がきく竜馬と慎太郎は「薩長連合なくして倒幕ならず」という命がけの信念でもって奔走し、とうとう薩摩と長州を説き伏せ手をにぎらせたのです。
とにかく竜馬は倒幕派の筆頭巨魁でありました。超大物だったのです。
竜馬らの襲撃の下手人が見回組だと分かれば薩摩や長州がだまっているわけがありません。そこで新撰組の仕業にしたのです。わざとらしい遺留品をみても明らかです。
薩摩藩の上層部も竜馬を邪魔者視するものもいました。そういう上層部の意をくんで薩摩藩の過激派が薩摩藩庇護下にいる伊東甲子太郎らに竜馬の居場所を見回組に知らせるように指示したのかもしれません。伊東らは見回組にも知り合いが多く新撰組の内情にも精通しておりました。
薩摩藩は彼らを利用したと私は考えます。鞘も瓢亭の下駄も伊東らが手配したものに相違ありません。現場に遺留品をわざと残して、その遺留品を伊東らが「新撰組のものに相違ござらぬ」と証言したのです。
新撰組の原田左之助が人を切るときは「こなくそ」という叫びをあげることは有名でそのことも利用したのです。
遺留品をみて伊東らは「この刀の鞘 見覚えがある。原田左之助の差料に相違ござらぬ。こなくそ は四国は伊予の地ことばでござる。奴はしょっちゅう
使っておったように記憶しており申す。瓢亭は新撰組行きつけの料亭。」
と証言しました。近江屋の二階階段付近で竜馬が倒れており 頭をわられてこときれていました。中岡慎太郎は無数の刀傷があったにもかかわらず まだ息がありました。
かぼそい息のなかで中岡は「こなくそ」を聞いた と言いました。
彼は近くの薩摩藩邸に運ばれました。手当てのかいあって普通の会話ができるまで回復しましたが、翌日 様態が急変 帰らぬ人となりました。
薩摩藩にとって都合よかった。竜馬暗殺は倒幕の火蓋をきるぜっこうの口実になります。新撰組の仕業ということにしておけばいい そう考えたのかもしれません。
薩摩藩にとって目の上のたんこぶがとれたようで 誰にも遠慮することなく武力倒幕をおしすすめられます。薩長同盟が成立すると竜馬の存在がじゃまになったのでしょう。幕府が大政奉還をしたにもかかわらず 薩長は翌年 正月3日 鳥羽街道にて幕府と戦端をひらきます。戊辰戦争へ突入していくわけです。
薩長軍は官軍となり、幕府を追い詰めていきます。
幕府軍は函館の五稜郭で最後の抵抗を試みますが その五稜郭も落ち事実上
260年間続いた江戸幕府はここに滅びました。
幕府軍の中に見廻組の生き残り 今井信郎がいました。
彼は官軍にこう証言しました。「竜馬らを切ったのは我ら見廻組である」と。
彼の身柄は兵部省から刑部省に移され、当時刑部省の長官だった佐々木高行の容赦のない取調べに自白したのです。
彼の供述調書によりますと 竜馬、慎太郎を切ったのは 渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助 の3名で、二階で切りあいになったとき、大刀は使いづらいので小太刀の名手が選ばれた とのことです。組頭の佐々木は階段付近をかため 今井信郎、土肥忠蔵、桜井大三郎 は玄関で家人の騒ぐのをおさえる役目だった とのことです。下手人は計7名ということになります。
今井信郎、渡部吉太郎(渡部篤)以外は戊辰の役で戦死しました。
薩摩藩が元新撰組伊東らを通じて、竜馬の居場所を見廻組に知らせ 見廻組の佐々木以下7名で近江屋を襲撃した そしてその襲撃を新撰組の仕業とみせかけようとした その線が一番濃厚です。
今井信郎は近江屋襲撃の下手人として禁固5年を言い渡されます。
維新回転の功労者 坂本竜馬と中岡慎太郎を殺害した犯人をたったのに禁固5年とはあまりにも軽すぎます。西郷隆盛が一面識もない今井の助命嘆願に奔走したといいます。今井は恩赦により明治5年に釈放されます。薩摩藩にすれば今井も維新回転に功績あり と考えていたのでしょう。
西郷隆盛は竜馬、慎太郎が暗殺されてから薩摩藩がからんでいることを内部から知らされたと思います。
西郷はどんな思いだったでしょう。その西郷も明治10年に自らが作った明治政府に追い詰められ熊本は田原坂で敗走し自刃します。
私の高校時代の美術の先生に郡楠昭という画家がいた。もう40年ほど前のことである。彼はもう亡くなったがその弟はまだ健在で伊勢市でフリ-ライタ-をしている。名を長昭という。彼の祖母の実兄に世良敏郎という御仁がいる。
彼は慶応3年11月15日の京都河原町三条下るの近江屋での竜馬、慎太郎 襲撃の一員ということが最近の調べでわかった。襲撃に加わったのは7人とされていたがもう一人いたことになる。現場に刀の鞘があったが はじめ新撰組の原田左之助のものと言われていたが 後それは世良敏郎のものと判明。後と言っても竜馬暗殺より40年ほど後のことである。竜馬暗殺に加わった渡辺篤という男が臨終の際に語ったことである。
世良敏郎は桑名藩士で姓名は小林甚七重幸という。長昭氏の祖母たつの実兄にあたる。縁あって京都見回組の世良家に養子にはいり改名して世良敏郎と名乗った。武芸はあまり得意としなかったらしい。襲撃後興奮のあまりうかつにも刀の鞘を現場に置き忘れたという。彼は同郷の渡辺篤に支えられ抜き身の刀を懐にかくし帰ったとのこと。
長昭氏の祖父茂昭氏は明治維新後 伊勢市に住み渡会県庁に勤めた。その子久昭、その子が長昭氏ということになる。
世良敏郎は維新後、どこに住みどのような人生を送ったかはようとしれない。 なにせ彼が伊勢とかかわりがあることが驚愕である。
見回組(襲撃に加わった人)
、佐々木唯三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の計7名。 + 世良敏郎
世良敏郎のその後
世良敏郎のまたいとこが現在(2011年)70代半ばで名張にてご健在であられる。郡長昭氏の面接取材で分かったことを記す。慶応3年に見回組の世良家が幕府に桑名藩の小林甚七重幸を世良敏郎として養子にむかえたき儀を申し出た養子縁組の願いの文書が発見された。ということは小林甚七改め世良敏郎が龍馬襲撃に加わったことはほぼ間違いなさそうである。彼は明治になって仇討ち禁止令はでていたものの 新政府や海援隊に復習されるのではないかと日々おびえていたらしい。勤勉で生真面目な性格だったのだろう。当時 龍馬暗殺は新撰組の仕業と思われていた。だから復習される確立はひくいのだが彼はおびえた日々を送っていた。また、現場に刀の鞘を忘れてくるという武士としてあるまじき失態をしてしまったことを恥じ、頭の片隅にいつもそのことが重くのしかかっていた。彼は武をすてた。そして猛勉強をした。そして数年たったある年から東京高等裁判所の判事として彼の名をみることができる。
ダンディに洋服を着こなし 馬車で裁判所に通う彼の姿は出世の象徴であった。
武士の多くは明治になって生活に困窮した。商売に失敗したり、自殺したものも多くいたとのこと。
彼はいかに出世しようとも武に弱かったコンプレックスと龍馬襲撃の復習におびえる気持ちは終生変わらなかった。
明治13年、世間を騒がす大事件がおこった、。その事件が世良に大きな打撃を与えることになる。その事件とは幕末 旧秋月藩士の臼井六郎(当時10歳)
が目の前で両親を切り殺した男一瀬直久を付けねらい13年後に東京高等裁判所判事をしていた一瀬を仇討ちしたというもの。
一瀬は世良の同僚だった。この事件により封印していた悪夢がいっきのよみがえり もともと繊細な神経の持ち主なだけに耐えられず病院に入ったという。
それ以降のことは分からないが明治22年42歳でこの世を去った と記録にある。